J 「お礼の信心。親奥様のこと。」

昭和五十七年二月二十六日 朝の御理解

x御理解 第五十三節 「信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い           知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ。後で考えて、あれ           もおかげであった、これもおかげであったということがわか           るようになる。そうなれば本当の信者じゃ。」


 信心すればとあります。信心すれば目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い知ったおかげより知らぬおかげが多い。これは信心すればとはっきり言われてありますね。信心ある者と、ない者の違いをそこに改めて感じます。
 昨日は浅野先生が、私の身体を見て下さる先生が見える日になっておりましたから昨日の幹部研修会に引き続いて文雄先生が残っておりました。ですから、夕食を家内と三人でさせて頂いて何の事からかわかりませんでしたけれども、家内が、あの、「本当私は親先生にもろうてもろて、今日のおかげがある」という話しを文雄さんにとも私ともわからんようにして話しておるんです。
 rあの人は朝鮮のふさんで生まれて朝鮮で育っているんです。で、あちらにおります時に縁談の話しがあっておったそうですが、私はそれこそ結婚以来、何十年間はじめて聞きました。あちらこちらからやっぱりお話しがしあって、一人は戦死をされた。一人は病死をされた。「もし私が、その人達と結婚しておったら、今頃私は未亡人になっとらなければならなかった」という話しをするんです。
 私はそれを聞かしてもらいまして、今日の御理解じゃないですけれどもね、いうなら、私共が信心を、まあ、熱心な信心も出来ませんでしたけれども、やはり子供の時からの信心、親のよりとよりも親の胎内からの信心ですから、親の祈りもありゃあ私共の信心もあるわけですけども、ははあ-、そういう何十年前から私に、いうならばぴったりした家内を神様は、ね、おかげを下さってある。
 信心すれば目に見えるおかげより、目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多いと仰せられる。全然何十年も知らなかったです。
 そういう前々からの神様の働きがあっておったという事を、ね。してみると、お互いの信心というものがです、どんなに御礼を申しあげても申しあげても信心すればである。御礼を申しあげねばならない事の足らない事の御詫びを、さしてもらわなんならんという事がわかりますよね。
 私が今の、今のち言うてから、昔も今もないですけれどね、家内と結婚してなかったらひょっとすると今日の合楽は生まれてないです、ね。あの人だったからこそ、私の信心についてきたんですからね。はあ、も、神様の深い深い、広い広い思いの中にある事。本当に知らぬおかげ。知ったおかげより知らぬおかげが多い。
 目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多いという事を、昨日、改めて、感じさせて頂いて、改めて私は御礼を神様に申させてもらいました。したら、今日はいつもここのところの御理解頂く、ね。あれもおかげであったとわかるようになると、こう本当の信者と。本当の信者という事。ここんところにいつも中心が置かれるんですけれども、も、今日は“信心すれば”という事に私は焦点をおいて、ま、今の話しでもそうです、信心すればこういうおかげがあるんだという事。何十年間、大体神様に向かって御礼を申しあげ、信心もわかって出来たかのよに思うけれどもね、何十年間も私はそこがわかっていなかった。いわゆる知らぬおかげであったという事である。
 先だってから二日間ここの植木の、いわゆる、造園のおかげを、ま、全信奉者の方達が集まって御用をなさいました。勿論、総代からのお届けもありましたが、その芯になられる椛目の宮崎さんが万事万端の上に、御都合、御繰り合わせ、お天候の事までお願いがしてございましたが、ね。
 昨日、一昨日でしたか、お届けがございましたが、あの、おしめりのあった日です 二日間の植木の植え替えをさしてもろうて、そん時の言葉に昨日ですね。水をかけねばならん三日目【  】れはならん日でしたが、前の晩からじっくりおしめりを頂いて、本当に神様のお働きの中に御用さして頂いた事がわかる。という御礼のお届けがあったんです。ね、
 皆さんが御用なさった明くる日、二日間続きました。そして植木がもう全部、移植が終わってしまって、そして三日目にあのおしめりであった。
 これはまあ、いつもの事なんですけれども、ね、そういう、なら、お願いをして、私共は往々(おうおう)にしてお願いをしとりますけれども、御礼を申し上げる事を忘れますですね。そりゃ、はっきり見えておるおかげでも気がつかない事があるんですよね。よっぽど私共は心を神様に向けておきませんと、ね。御礼を申し上げねばならん事に御礼を申しあげるだんではない、不平に思うたり、不足に思うたりしておるような事がいくらもございましょう。
 昨日浅野先生が見える時間を待たせて頂いとる間に、テレビを見せて頂いとりましたら、はじめて、聞く民謡を聞きましたんですが、その、何にも、いうなら変哲もない、何でもない、まあ、唄でしたけれども、その、唄の文句を聞かせて頂いとりましたら、涙がこぼれて、涙がこぼれてしかたがなかった。
 布団の中で、しばらく涙が止まらないほどしに涙がこぼれた。何の為にこんなに悲しいのだろかと。その民謡の唄の文句というのが、私、ちょっと忘れましたけれどもま、大体・・・・。♪♪雨や風は今宵は吹くな、と 主が今夜は沖泊まり・・♪♪といったような文句でした。いうならば、沖というのはまあ、漁師でしょうね。
 夜をかけて漁に出ておるわけです、ね。今夜は雨やら風やらが吹かんように、降らんように主が今日は沖泊まりだから、というまあ、いうならば、祈りなのです。
 これは、ま、祈りに似た祈りといった方がいいでしょうけれども、これは例えばね旅立ちをするならどうぞ無事にという、信心はなかっても、その祈りというようなものを感じなさっておるに違いありません。特に、なら、飛行機なら飛行機に乗って、旅行というたら飛行機に事故なんどんがありませんように無事に帰って、これは誰でもがそういう思いですね。思いを強くする事であろうと、けれどもそれはいうならば、空しい(虚)祈りなのだと、そうですねよね。ここに祈れば、このようにはっきりと手応えのある信心があるのに、ね。いうならば、飛行機で、なら、旅行をする。お取次を頂いてお願いをする。はっきりと神様の御守護を受ける事が出来る働き、これなどは信心すればであるね。信心のない者でも、何か旅行でもする時には特に、飛行機なんかも最近事故が多いですからやはり、乗る時には祈りのようなものを、家の者も自分も、ね、やっぱ祈らずには、思わずにはおれないでしょう。どうぞ事故がないように。どうぞ今夜は主が沖泊まり、風も吹くなよ雨も降るなという祈り。私はその祈りがです、空しいという事なんです。その事がね、これは天地の親神様の嘆きだな、悲しみだなと思いました。もう、わけもわからんのに、こう、涙がこぽれてしようがなかった。そういう、なら、人間氏子がどの位世の中には多いかわからんのです。
 いよいよの時には、やっぱ、思わず合掌するという事でございますがね。 或るこれは、ヨ-ロッパのお医者さんが山に、ま、探検でしょうかね、何か行かれてとうとう道を間違えて、一晩中山の中で、野宿をしなければならない事になった。 深々と夜がふけてくると、も、あっちこっちから、いうならば、野獣の鳴き声がねいわゆる吠える声が聞こえてくる。もう、その怖さとか寂しさというか、もうとにかく、信心も何もかにも、仏も知らない人がですね、朝まで合掌してやっぱり何かに祈っておったという話しを聞いた事があるんですけども、信心がなかってもね、いよいよの時になると、思わず知らず合掌しておる、という事だそうですね。
 ですから、そういう祈りというものがです、これはどこを対象として祈ってるのかわからん。只、思うたという事なんです。それが、なら、生神金光大神、天地金乃神というはっきりとした対象があり、しかもお取次を頂いて祈るとか、願うとかいう事は間違いなしに手応えがあるのでありね、いうなら、その御守護を受ける事がでけるのである。とても、火難、盗難、水難、最近では交通難といったような事がですね、あるがとにかく、願わずにはおられない。今日もおかげで無事にそういう様々な難から御守護が受けられておったという事に対してでも、もう、心の底から御礼を申し上げる信心にならないけませんよ。当たり前のごと思ってる。
 もう、今日目が覚めた、朝参りが出来たというなんかは、なかなか大変なおかげなんですね。そういう強い御守護の中におかげを頂いとるのです。ね、
 私共がそういう、いうなら、神様を実感できれるおかげを、只、眼に見えるおかげの時だけに感じるのではなくて、眼に見えない、知らないおかげの中にもやはり、御礼がいり、又は御詫びがいり、又、願いがいるのです。
 そして、私がその、今宵は主が沖泊まりという、まあ、家内が主人の身を思うてのいうならば、思いであり、ま、祈りのような祈りであろう。けども、そういう切々に祈っても、それはどこへ行きようにもない祈りである。空しい(虚)祈りである。
 それに信心を頂いとる、今日の御理解、信心すればである、ね。信心すれは眼に見えるおかげより、眼に見えぬおかげ、知ったおかげより知らぬおかげ、という事はいかに神様がそれを信心すれば聞いておって下さるかという事をね、思わせて頂かねばならぬ、わからせて頂かねばならぬ。ね、そして、いよいよ本当の信者じゃと仰せられる本当の信者を目指さなければならない。
 大体、まあ、御礼を申し上げてる、大体お願いをしたらそれに対する御礼も、なら火難、盗難、水難、様々な難から、今夜一晩もどうぞ御守護を頂きまして、又、皆さん朝の御祈念なら朝の御祈念にでもお参りしてくる人達がね、有り難く目覚ましのおかげを頂いて、御参拝ができるようにという祈りを、これは私が毎晩させて頂く祈りなんです。ですから皆さんのこうやって顔見ると、はあ、今日もみんなおかげを頂いておるな、今日は誰が参って来てないがどうかあったんじゃなかろうかと、こうまあいうならば思いがはしるのも道理ですけれども、そういう祈りの中にあって、今日御参拝がでけておるという事に対して私は御礼を申し上げなければ、いうならば、御礼を申し上げなければならない事に御礼を申し上げられないで、積もり積もって御粗末御無礼といったような事にもなりかねない、ね。そういうところがわかって、いうならば、ね、あれもおかげ、これもおかげとわかるようにだんだんなってくる、ね。
 家内の、私は、昨日の家内の話しを聞きながら、ほう、何十年間この人と結婚したという事の、ま、そのもう一つの向こうには、そういう神様の妙なる働きがあって、私のところに来ておるんだなあ、しかも、んなら、私は非常に好みがいろいろありますから、ね。私の好みにいうならば、ぴったり、又、この人でなからなければ出来なかった今日、合楽の事を思うてですね、彼女が私のところへ嫁入ってくる前には、そういう様々な、なら、彼女自身としてもです、もし、私が、はじめにもらわれた人、二番目にもらわれた人あったろうけども、もし、結婚しておったら、今頃は私は未亡人ですけれども、まあ、親先生にもろうてもろたおかげで今日のおかげがあるというてま、家内の実感だったんでしょう。
 まあ、私と文雄さんにどっちともつかんようにして話しておるのを聞かせてもろうて、ははあ、本当に知らぬおかげとはこの事だろうというふうに今日、又、改めて思わせて頂いたのでございます。どうぞ。